両翼のブログ

できるだけ公平に読み、考えていきたいと思っています。自分は右翼でも左翼でもないと思っています。そもそも右左どうのこうのという類は実にくだらなく、意味のない喧嘩にしか思えません。翼は両方あって初めて飛べるのです。

ルールと言う名の隠れ蓑

 法やルール・言いつけられた事を守る事は、その法やルール・言いつけがどんな事であっても正しい事なのだろうか。2017年9月27日、NHKでナチスの親衛隊であり、ユダヤ人を強制収容所へ送りこむ指揮を執ったアイヒマンという人物を放映していた。彼はナチスの敗戦後逃亡し潜伏したが、アルゼンチンにてイスラエル秘密警察に逮捕され連行され裁判を受ける。かれは「私は命令に従い、忠実に実行したまでだ。」と発言した。その当時の、彼の取り巻く環境とルールに忠実に従った事は、弁解の余地があるのかが問われていた。
 私は、旧日本兵であり、戦後裁判にかけられ死刑判決がでた男の話でこれと同じような内容を読んだ事がある。それは戦争中に己のした行為を「僕は上の命令通りにしただけだ。批難されるのはおかしい。何故理解してくれない。」と嘆くものだった。結論から言うと私はこれらはもはや、論議するまでもなく悪であると思う。なぜなら、命令通りに行った非人道的行為は、(それを実行する事で何が起こるか本当に知らされてない、もしくは能力的に善悪の判断ができなかった。もしくは己や家族等の命を人質とされて仕方がなかった場合を除き)、全て有罪であり、絶対的悪だと断言する。
 確かに、法やルールを守ると言えばとても良い事のように聞こえる。しかし、例えば国が法律で「あなた個人を問答無用で死刑にします」と決めたとしよう。では、法律通りにあなたを殺しますと隣の人がナイフを振り上げて来たら、そのナイフを振り上げる人をあなたは正しいと思うだろうか?その行為は正しく許されるのか?法やルールは多数で取り決めた約束事か、破壊者が緊急性を有するなどと繕い、己に都合の良いように作ったものに過ぎない。例えばとあるクラスで教師が出来の悪い生徒に腹を立て「この頭の悪い彼を無視するルールを作ります」としよう、それでもそれはルールであり、大雑把に言えばそれが国の規模なら法だ。その教師のルールに、やらなければ自分も無視されるかもという恐怖からやらざる負えなかったのは多少の言い訳になるが(それでもそれがやはり保身や利己的、打算的なものを含むなら悪である事は変わりない)、ルールを守るのが美徳という気持ちからのみで行うのは、己の良心を省みない自己中と言うものであり、「言われたからやった」は言い訳にならない。法でもルールでも規律でもシキタリでも、それで何が起きるかを知らなかったか、命の危機等でやらざる負えなかった以外の場合は、それを実行したり守る事に己の責任が発生するという事だ。又、これらのケースで思う事は、旧日本兵にせよ、アイヒマンにせよ、精神の未熟を感じる。つまり、旧日本将校の一部、またナチスの幹部等に見られるが、命令通りにこなす事への罪の意識のなさを感じるのだ。例えるなら親が子供へ命令する事や、教師が生徒へ命令する事を守る事など、その命令を守る事への子供のような無垢な心や、快感からというのを感じる。それはつまり、いい年した大人が、自分の心で善悪の判断をする能力を持たず、例え部下が無謀な作戦の上でいくら死のうと、例えその命令により多くのユダヤ人が虐殺されようとも、一切の良心の呵責も感じないのだ。そして事が終わり裁かれ、己の行いを内省【自分の行動を深くかえりみさせる事】が行われた時、平然と「そういう法・ルールだから、上からの命令だったから」で済ませる無責任さなのだ。そして又、それと同時に、命令通りにして生きたい、自分で決定するのが嫌だ、面倒くさい、怖くてできないという子供じみた単純な側面も見られる。ただ、それが考慮されるのは、まだ力もなく、社会を知らない子供だけだ、大人は絶対に許されない。このような人物を輩出したのは、当時のドイツの経済の混乱など色んな要因があるだろうが、教育も大きな要因だろう。結論を言うと、全体主義的【個人の全ては全体に従属すべきとう思想】な環境や教育こそが、このような未熟な大人を輩出させる要因なのではないかと思う。なぜなら、全体主義的な社会や模範ではアイヒマンみたいな人物は優等生であり、現に彼はナチスの親衛隊でもあった。全体主義は個人の制限と、国(という名の一部のトップ)への絶対的な服従だ。それは規律的な社会ともいえる。しかし、その下に弱者の痛みがあろうが、気にしない事が優等生であり、気にかけたり反発するのは彼らの世界では劣等生なのだ。最近ではいわゆる全体主義から見た意味での劣等生をミーイズムと罵った人がいる。良心の呵責なども含め、自分の意見を言うのは(意味が違うと思うが)個性だと言い、個性を育てる教育は自己中である人間を育てると批判していた。全体主義の世界では確かに、例えば「ユダヤ人だって人間だし家族もある、俺は殺せない」も、「俺だって生きたい」や「特攻何て命令できない、部下の命を失いたくない」は禁句であり、そういう発言は自己中であり、劣等生なのだ。
(注:ここで個性=自己中ではないのだが、とある人の訴えがそうなので、そのまま載せました)
 極端な事を言うなら、善悪の判断も人が独善的に決めている事である。(但しその線引きは違えど人には必ず己の良心・正義というものがあり、その時代に共通するその正義の部分が法や規律になっている事が多い=法が必ず正しいと勘違いしてしまう原因)。もっと極論を言えば、誰しもが己の主義を決める権利がある以上、あなたは全体主義に賛成ですか?反対ですか?で済む話でもある。しかし過去も今からも、全体主義から見える事は、命の軽視であり、良心・良識や優しさなどの思いさえ、その全体主義に都合悪いのであれば踏みにじようとする思想であり、人を意思のない機械に近づけ、場合により殺人を行うのも命令だからと、良心まですてる無責任さだ。又、全体主義に賛成している人がよく問われながら、決まって彼らが口をつぐんでいる事なのだが、もしかすると虐げられる側になるのは、それに賛成しているあなたかもしれないですよ?という事だ。又は、途中までは言いなりで良かったが、さすがにこれは出来ないという事に直目にしても、もう逃げられないのだ。全体主義に魂を売った者は、己の意見や意思を放棄する事であり、今後もそれを失うのだ。人を殺せと命令されたらやるか、去るか(もしくは処罰・処刑されるか?)なのだ。ここまで書き、私の心はもちろん、その全体主義は絶対悪であり、例え命令であっても人殺しは人殺しとここで断言する。しかし、それでも悪に染まる人もいる事実として、全体主義に染まる人がいる事を理解する。だが、今の日本にはここまで深く突き詰めてないにせよ、片足なりをこの全体主義に入れてる人が増えてきてはいないだろうか。それは、実は今までの教育は自虐的どころか、過去の戦争の猛省も含め足りないものであり、もっとこの全体主義というものを考え、言いつけられる正義ではなく己の正義を考えさせ育てるものにしなくてはならない事を示している気がする。読んですぐ理解できるほど、自立する事、己の良心を育てる事は簡単ではない。ましてや日本はそのような全体主義を好む人達が、人の良心と自由を育てるような教育を好ましくないと思っているのか、日本には日本特有の教育があるなどと述べながら、子供達をロボットのようにしたいという思惑が見える。ただ働き、税気を納め、戦争になれば戦争に行き、自分達に絶対に逆らわないロボットのような国民が育てられたら、それは全体主義の上の人間には成功だろう。美徳、愛国、伝統などという言葉を後ろ盾に、自分らは好き勝手、欲望のままに振り舞うありさまは、国民に押し付ける美徳と真逆で滑稽だ。しかし、全体主義が浸透してしまうと、それも見えにくくなってしまう。改めて問いたいが、それは規律的であっても、飼い主と手綱を付けられた犬であり、一度許してしまえば、自分達の子供達さえも生まれたと同時に首輪をつけられ外す事が難しくなる。そんな社会を作ってしまう事自体、人と言う存在に対する冒とくと、これからの子供世代への汚辱だ。
(ちなみに、アイヒマンに関しては、彼は敗戦後逃亡しアルゼンチンに逃げた。これは己のやった事を理解していた証拠であり、本当に一点の迷いなく、心からそれが正義と思い込んでいたなら、逃げずにそう訴えたはずだ。又、それ以外にもアイヒマンの発言は、ユダヤ人への憎しみと殺意を十分に感じるものがあり、どう見ても有罪である。命令に従う正義に、ほんの少しでも純真無垢な正義心がありそうな気がするが、やはり人はどこか良心の呵責を持ち合わせており、己の行為を分かっていてやっているのだ。ほとんどの全体主義者は、それが悪い事と知っていたとしても、「命令」という言葉を隠れ蓑にし、自分の呵責を誤魔化しながら、己の憎悪や殺意を存分に発揮する卑怯者だ。)